川崎市の児童らの殺傷事件 被害者らの親族関係者や学校関係者に対しては取材の配慮をおこなうべき また無用に「絆」とか「仲間」「友達」を賛美しない事が犯罪の抑止になるはず

28日に発生した、川崎市で児童らが無差別に襲われ2人が亡くなった事件は、凄惨としか言いようが無く、被害に遭われた人たちの関係者は本当に打ちひしがれている状態であろう。また、被害に遭った児童の登校する学校関係者や亡くなった男性の勤務先なども、哀しみに打ちひしがれている筈であり、報道機関は取材などを基本的に自粛するべきであろう。

このような事件が起きると犯人の生活状況や生い立ちについて注目が集まる事は致し方ない面もあるが、犯罪の動機は犯人が自死した以上は不明であり、今となって誰にも分からないことも事実だ。犯人の岩崎隆一が引きこもりであったとか、不幸な生い立ちであったとか煽り立てるような報道には筆者は感心しない。どんな状況下においても犯罪など起こさない人間も存在するし、どんなに恵まれた環境にあっても犯罪を行う者は平然と犯罪を行うのである。

こんな事件が起きると、犯人と似たような属性の人間を叩く傾向が強くなるのが最近の傾向である。まず脳みその足りないと思われるネット右翼が何でも犯罪と在日を結び付けて考えて、そのような妄想をまき散らした後に、「引きこもり」「孤独」「人間関係を構築できない」人間たちを一斉に叩きだし、「犯罪予備軍」と断じるのであるが、そんな単純な話ではないだろう。引きこもりにしても人それぞれで、芸術肌の引きこもりもいれば、攻撃的な引きこもりもいるのである。人間関係を構築できない事や、学校・地域・社会から孤立する事自体が悪であるかのような論調もあるが、人間など所詮1人であり、生まれるときも死ぬ時も1人なのであるから、無理して何かに所属する必要も無く人間関係などいらないと思う人間もいる事を理解したほうが、このような犯罪は抑止されると思うのである。

多くの友人・仲間に囲まれてこんなに幸せですというのは、ネット時代になりバカでもアホでも情報を発信ができる事態になって、人間関係を可視化して自己承認をおこなうSNSというツールの発達によるものが大きいと筆者は考えており、このような自己顕示ツールの拡大で、何を買った、どこに行った、何を喰ったという何の社会の役にも立たない情報がネット上に溢れるのである。

現在のネット時代は人間が「思索」を行わないようになった時代でもある。大宅壮一はテレビを「一億総白痴化」と断じたが、ネット時代は「一億総自己顕示化」という時代だろう。

こんな時代に乗れない、人付き合いの苦手な人間は疎外感を募らせ、社会や恵まれたように見える者らへの敵意を育み自暴自棄になっていくのであろう。誰だって心の中に狂気を持っており、そのような狂気や絶望と向き合い闘いながら生きているのであるが、「友人」や「仲間」に価値があると我が国の社会では思われているので、孤独な者はそんな「お友達真理教」に洗脳されて疎外感と強迫観念で頭が狂っていくのであろう。

今の時代は何かというと「仲間」「絆」という事を言う奴らが多いが、それは逆に言えば身内・仲間だけを大事にするという偏狭な意識である。安倍首相がモリカケに、レイプジャーナリストを庇ったりとかロクでもないことを行いながらも、それなりに支持率があるというのは仲間を忖度するという態度が、お仲間主義者から共感を受けている可能性もあるだろう。半グレ集団が犯罪仲間を「クン」付けで呼んでお仲間ごっこをしているのも、見苦しいメンタリティーであり、安倍とやっている事は変わらない。こいつらはカネで揉めれば、すぐに「さらう」とか「埋める」と騒ぐくせに、普段は仲良しごっこをしたがるクズなのである。

筆者からすれば偏狭な仲間意識よりも、全く見ず知らずの人間に対しての善意の行動や面識がないものに対する打算の無い行動のほうが余程崇高だと思うが、どんなもんだろうか。

教育関係者や法曹関係者は、つまらん同調圧力に屈することないよとか、お友達をたくさん作る必要はないですよと社会に啓蒙するべきだろう。いい年をした引きこもりには感心しない事は確かであるが、そいつらを批判しても何らの状況も変わらないのである。そんな連中を大量に生み出した我が国の教育をもう一度見直すことのほうが必須であるはずだ。

裁判員制度を翼賛する提灯記事への違和感 市民感覚を本当に刑事裁判に持ち込んでいいんですか?

裁判員裁判制度が10周年を、迎えたことでマスコミの多くは「市民感覚」が司法に導入されたとか、「調書重視」から「法廷重視」にかわったなどの論調を行っているが、筆者は大いに違和感を抱いている。

なぜなら、刑事裁判に「市民感覚」を反映されれば、犯罪被害者の報復感情を重視するべきであり、裁判員裁判に付されるような重大事件においては、被害者が厳罰を望むことは当然なのである。殺人事件などの被害者の親族からしたら、加害者の「死刑」を望むことは当然であり、市民感覚の導入という事であれば基本的には「厳罰化」という事になるはずなのである。

しかしながら、一審で重い量刑が課せられたとしても控訴審では、量刑が低くなることが多いことも事実である。一審では「市民感覚」を導入し、控訴審では導入しないというのは極めて不合理であろう。また「調書重視」が変わったとの論調もあるが、当たり前であるが今現在でも供述調書は最大の証拠である事には変わりない。法廷での攻防も完全黙秘事件ではない限り調書の内容(真実性)を巡ってになるのであるから、調書重視の姿勢が変わったとは筆者には到底思えないのである。

そんな実情であり、裁判員に招集された人の6割もの人が辞退をする裁判員制度が広く国民に受け入れられたという論調は大きな間違いであると筆者は考えるものだが、大マスコミなどはそうは考えないらしい。

刑事裁判に市民感覚を持ち込みたいのであれば、腐りきった「カネの亡者」らに、健全な市民感覚から厳罰を与えられるようにするべきであろう。現在も一向に減少する気配のない特殊詐欺を撲滅するには、そのような犯罪に厳罰を加えられるよう法改正し、厳罰を与えたうえに、犯罪収益を元に開業した事業などの全ての収益まで没収できるようにすべきなのである。

裁判員制度でなくとも健全な市民感覚を司法に反映させることは可能であり、立派な人ばかりが集まるシンポジウムとか討論会では無く、普段仕事に追われている人から意見をくみ上げる対策を取れば、本当の「市民感覚」の意見が分かると思われる。

多くの裁判官らには一般的な「市民感覚」は余りないと筆者は考えているが、それは「裁判所村」の常識に縛られている者が多いからである。生活に何の不安も無い裁判官らに犯罪者の気持ちを理解することはなかなか難しいであろうし、様々な犯罪の態様とか、犯罪の動機などについては法廷で分かる事もあるだろうが、本当の底辺の生活を送る者の心情など理解できないのも真実であろう。そんなことから、多くの裁判官らが身分を明かさずに簡易宿泊所に泊まったりコンビニでバイトしたりして「市民感覚」を養い判決に生かしたほうが、裁判員制度よりもよほど有益であろうと思うが、どんなもんですかね。

裁判員として裁判に参加するのは大企業勤務か無職の人にしか無理でしょう わが国にそぐわない陪審制度は廃止すべき それよりも民事訴訟制度の改革を

読売新聞の18日付の社説は「裁判員制度10年 辞退率の増加が気がかりだ」というもので、裁判員制度の導入時よりも辞退率が増加している事を指摘し、幅広い国民の視点を反映させるという裁判員制度の根幹が揺らぐのではないかと指摘する内容である。

 

【参考リンク】

読売新聞 社説 裁判員制度10年 辞退率の増加が気がかりだ

 

中小企業で働く人や非正規労働者や自営業の人は裁判員裁判になど参加したくはないだろう。裁判員裁判に出席するよりも、仕事をすることのほうが大事であるからだ。「裁判員裁判に出席するので明日は休みです」と取引先や同僚に話をして、理解を得られるのは大企業だけであろう。

また、すでに仕事をしていない高齢者やニートなどは暇だから裁判員裁判に出席することは何らの問題も無い。そんなことから読売社説が心配する通り、幅広い国民の視点を反映させることなどが困難になる事は明らかだ。

しかしながら、そもそも裁判というものは法に照らして法に則り行われるものであり、「幅広い国民の視点」など必要としていないのである。裁判に世論を反映させれば、韓国の司法界のようになるだろう。

裁判員制度推進者らは我が国にも大正陪審があり、我が国に陪審制度がそぐわないという事など無いと述べるが、大正陪審の陪審員はある程度の納税を行っている30歳以上の男子というのが前提条件であり、そうなると陪審員は当時のエリートや名士であり、しかも法廷は「天皇の法廷」であったわけだから、現在の裁判員制度とは異なるし、「天皇の法廷」に出席する陪審員の意識も現代とは全く異なるものだったはずである。

そもそも我が国には陪審制度はそぐわない事は明らかである。幼少時から「法」の存在を意識するアメリカなどとは異なり、「人治」が基本の我が国には合わないし、本気で裁判員制度を導入するのであれば、労働環境を大幅に改善することが必要である事と、働くもの誰もが適正に休暇を取れるようにするべきであろう。

裁判員制度よりも、必要なのは民事裁判や民事執行についての改革であろう。時間ばかりかかり勝訴判決を得ても執行が困難な我が国の司法制度では民事裁判を利用することに躊躇してとうぜんであろう。だから訴訟の新受件数が漸減しているのである。執行制度がもっと実効性を持てば、弁護士の懐具合も今よりは良くなるはずだ。そんな意味からも、真の意味の司法制度改革が必要なのであり、すでに崩壊している法科大学院制度も見直しすべきであり、弁護士自治の見直しも行うべきであると筆者は考えている。

令和の御代になろうと、人間の本質が変わる事はありません 「奉祝」よりも「天皇制」というものを深く理解することが必要なはずです

5月1日に改元がなされてから、世の中は奉祝ムードで、マスコミも今上陛下の過去のこぼれ話などを取り上げたりして、今上陛下を持ち上げることばかりを行っている。

しかしよく考えて欲しい、天皇制というのは皇族の人権を制限することで成り立っている制度であり、今上陛下を始めとした皇族方には様々な束縛が存在し、また日本国民の権利である、選挙権・被選挙権も有しないのである。「象徴」という立場から、ご自身の意見を述べる事にも慎重になられることも事実であり、同じ人間でありながら、多くの自由を制約されている中で、伝統を守るための儀式などをとり行っているのである。

今、馬鹿みたいに「奉祝」しているような連中は「天皇制」や「天皇の歴史」に思いを馳せたことがあるのであろうか?また、現在の日本国憲法下での「象徴」としての天皇制による、皇族らが基本的人権が付与されていないことについて何か考えた事があるのか聞いてみたいものである。

また、天皇制に反対すべき勢力もだらしがない奴らばかりである。即位の例が行われた5月1日にはメーデーである。天皇制反対の労組や極左暴力集団らは、何らの不穏な行動をしなかったようだが、自分たちに信念があるのであれば、今上陛下や皇族らに対して「汝の部署を放棄せよ!汝の価値に目醒むべし!」と赤旗を振りかざして二重橋に突撃すべきだったはずであると筆者は考えるが、そんな事を行った連中はいなかった模様だ。

天皇制が曲がりながらも古代から現代まで連綿と維持されてきたのは、キリスト教社会における「教皇」やイスラム世界における「カリフ」などと同様の宗教的な「権威」により、我が国の時の権力者らの正当性を担保するためであると思われる。また一時期には仏門に入る皇族らが多数存在したことや、神仏習合の中で天皇家と関係の深い八幡神の出家の伝承や、僧形八幡神像などが多数残されている事などからも、国家として天皇(神道)の宗教性よりも、仏教が重視されていた時代もあったことも理解できる。そういうことからも天皇の「権威」「宗教」というのはいかなるものかを再度全ての国民が考える必要があると思われる。

改元がなされようが何が起きようが人間の本質が変わるわけもなく、人間の生活など変わる事がない事ぐらい誰でも理解できることである。そのうえで、天皇制というものが如何なるものであるのか、またなぜ現在も必要とされるのかを国民一人一人が考え、「改元」の意味を考えるべきなのである。

日弁連は、大逆事件の刑死者らのための、市ヶ谷刑務所刑場跡慰霊塔を建立したりしているが、皇族らの人権についても考察を行うべき事も行うべきだろう。

改元に当たって 「拝金主義」の蔓延と、孤独に耐えられない人間の増加が止まらない限り今後も我が国に明るい展望はない事は確かです

いよいよ平成の御代の終わりも近づき、新たな「令和」の時代が目前に迫ってきた。

新紙幣の各肖像も決まり、1万円が渋沢栄一で5千円が津田梅子、千円が北里柴三郎という事であるが、筆者であれば1万円はサングラスをかけた澁澤龍彦にして、5千円を女性とするのであれば金子文子とか日野富子にして、千円を医学関係者とするならシーボルトとか華岡青洲にすれば気が利いていると思うのだが、無知無教養の安倍首相には何のことだかサッパリ分からないだろうと思われる。

平成の時代で一番大きく社会が変化したのは、携帯電話という究極的に人間を管理・束縛するツールが普及したことであろう。昭和の時代の会社員は、自分の裁量で営業先を回ったり、仕事の配分をできたのは人に首輪をつけるような携帯電話がなかったからであろう。植木等が演じたスチャラカ会社員も携帯電話が存在しなかったからこそである。

携帯電話はスマートフォンに進化し、一対一の通話・メールから、ラインなどのグループによる情報共有という極めて厄介な通信手段になり、結果的に働くものはさらに束縛され、人間関係の可視化が進み、子供などにとってはいじめのツールに発展したのであるが、こんなものが人間を幸せにするわけがない事は確かであろう。

携帯電話などは確かに便利であるが、相手の都合に構いなく連絡が24時間可能になる事が果たして良いことであるかをよく考えるべきであり、ラインのようなツールは犯罪助長のインフラでしかなく、社会の害悪でしかないと筆者は考えている。

SNSは単に自己顕示欲を満たすツールとして発展しMIXYやFACEBOOKで「俺はこんなにお友達が多く充実した人生を送っていますよ」という情報をひたすら垂れ流し、何を喰ったとか何を買ったとかを仲間内で自慢するツールであり、何の役に立つのかさっぱりわからないが、犯罪捜査などでは人間関係を特定するには有益なツールのようである。どこに行っても老若男女問わずイヤホンを付けてスマホをいじっている人間ばかりであるが、一日中音楽を聴いていれば耳も悪くなるだろうし、例えば自然の中を移動しているときは風の音や自然の声に耳を澄ますべきであると思うのであるが、車道の真ん中をロードバイクで走って右折レーンに自転車で入ってくる奴ほどイヤホン付けて自転車を転がしている奴が多いのである。

筆者は何度も述べているように「カネの亡者」が大嫌いである。カネでしか自己顕示をできないバカ者どもなど生きる価値はゼロであると思われるし、カネのためには平然と犯罪を犯す特殊詐欺師などは特に大嫌いである。最近は、特殊詐欺師がビジネスマン面して流行りのスーツに身を固めアタッシュケースを抱えて隠語を使いスタバで糞まずいコーヒーを飲んで打ち合わせに勤しんでいる事が多いようだ。どこの出身であろうと根性が根っからの田舎者なので流行りものに弱くカネで自己顕示をするために浪費を繰り返し、バカ女にカッコをつけるのであろう。こんなクズは全員銃殺で構わないと思われるし、一人で行動できず絶えず「センパイ」とか「コウハイ」とつるんで、行動するような馬鹿共も社会の害でしかないだろう。群れてしか行動できない人間は会社員であろうと犯罪者であろうと見苦しいだけである。昭和の時代には一匹狼の詐欺師や事件屋も多かったが、最近はみなさん「センパイ」「コウハイ」という中学生のままの気分のバカ者たちばかりである。

弁護士の質も確実に落ち、「誇り」「気概」を持つものが少なくなった。だからこそ犯罪集団に「飼われる」弁護士が増加したのである。過払い金返還請求がヤミ金や特殊詐欺師のような反社会的勢力が弁護士業界に流入するきっかけになったのであるが、過払い金返還請求は実務能力に関係なくできる仕事であり尚かつ儲かったことから、多くの無能弁護士が増殖するきっかけにもなったのである。

法科大学院制度は機能せず、実質的に司法制度改革は大失敗したことが明らかになり、法曹志望者は激減し、今後の法曹界の行方も定かではない。果たして令和の世がいかなる御代になるかは予想もできないが、弁護士自治を見直すことが必要な時代になる事は間違いないだろう。

筆者は令和の御代においても、今まで通り「カネの亡者」と「欠陥弁護士」を論い、当サイトを地道に更新していくつもりである。そして弁護士自治についての考察も続けていく所存だ。何度も同じような事を繰り返し述べていくと思いますが、「また同じことを言っている」と思われても、今更性格は変わらないと思うので、ご容赦のほどお願い申し上げます。

当サイトと同名のサイトにこちらは関係ありません 非弁業界の内部告発は大いに歓迎しますが違った名前でやってほしいです

読者の方から当サイトと同名のサイトがあるとのご指摘があった。

 

【同名のサイト】

 https://鎌倉九郎.com/

 

上記のサイトは筆者は全く関与してない事をお知らせしておきます。このサイトの紹介を見ると

 

 鎌倉九郎のブログ。補足情報サイト。過払い金・残業代請求詐欺を悪用した組織犯罪・詐欺集団の非弁提携法律事務所の元従業員・関係者・被害者からの匿名通報お待ちしております。独自に寄せられた情報を公式サイトとは別の視点で掲載。

 

との記載があるので、当サイトを「公式サイト」としている事は分かるのであるが、本年3月31日付の記事で鎌倉九郎とは? として、このサイトの運営者が月刊誌弁護士ドットコムの取材に応えた事が述べられ、kurou kamakura.と記載があるので、「補足サイト」から「本家」になったとも読み取れるので、同サイトが当方と関係がない事をお知らせする次第だ。

この補足情報サイトによる非弁業界の内幕暴露自体には大きな意味があり、エイワの本田高英を糾弾する事や、本田関連の非弁事務所を暴露する事も大いに結構であると筆者は思うのであるが、あまり紛らわしいことはしないほうが良いと思われるので、このサイトのウェブフォームを使って、サイト名を改題して頂きたい旨のご連絡を行ったが、今のところ回答が無いので本稿を掲載することにした。

まぁ、同サイトの運営者にユーモアがあれば「蒲冠者範頼」とか「源三位頼政」などと名乗って頂き、大いに非弁屋たちを叩いて頂きたい。

松橋事件の再審で無罪判決 捜査機関は自白偏重の捜査手法や不適切な捜査を見直すべき

 

西日本新聞は28日付で『「自白に矛盾」松橋事件、再審で無罪判決 熊本地裁』として、以下の記事を配信した。

 

熊本県松橋(まつばせ)町(現宇城市)で1985年に男性が殺害された松橋事件の再審で熊本地裁は28日、殺人罪などで服役した宮田浩喜さん(85)に、同罪について無罪判決を言い渡した。地裁は有罪の根拠となった自白調書などを証拠採用しておらず、溝国禎久裁判長は「被告が犯人だと示す証拠はなく、殺害は認められない」と述べた。弁護側は判決後、熊本地検に上訴権を放棄するよう申し入れた。

 認知症を患い、ほぼ寝たきりの状態にある宮田さんは初公判に続いて出廷できなかった。

  再審公判で自白調書などを採用しなかった点については「数年にわたる審理での弁護側の詳細な主張を踏まえ、再審開始決定で自白の信用性が否定された」と説明。再審公判で検察側が新たな有罪立証をしないと表明していたことや、有罪判決から長い年月が経過していることも挙げて「再審請求審の判断と異なる結論は想定し得ない。可能な限り速やかに判決を言い渡すことが適当であると考えた」と述べた。

  一方、85年に自宅で拳銃を所持したとする銃刀法違反罪などについては懲役1年を言い渡したが、宮田さんが改めて服役することはない。

  捜査段階で宮田さんは「布を小刀の柄に巻き付けて刺し、布は燃やした」と自供していたが、再審請求を準備していた弁護団が検察が開示した証拠から燃やされたはずの布を発見。再審請求審で新証拠として提出した。これらを踏まえ、2016年に熊本地裁は「重要部分に客観的事実との矛盾が存在する疑義があり、自白の信用性が揺らいだ」として再審開始を決定。最高裁で確定した。

  その後の検察側や弁護側との協議で、地裁は宮田さんの体調を考慮し「迅速に審理を終わらせたい」と表明。今年2月の初公判では「再審請求審までの経緯を踏まえると取り調べる必要がない」として、自白調書や凶器とされた小刀などを証拠採用せず、即日結審させた。検察側も有罪立証しなかった。

 

引用以上

 

無罪判決を受けたとしても、宮田さんの人生が戻るわけでは無い。捜査機関の「思い込み」は一人の人生を台無しにしてしまうのである。自白偏重の捜査手法は、改善されるべきであり、実質的な脅しなどを交えた、不適切な捜査手法や「家族に迷惑が掛かるぞ」とか「自白すれば保釈の可能性がある」などというような内容を捜査員が述べる事が、現在も行われている事は事実であり、そのような捜査手法が冤罪を生み出すことを捜査機関は自覚するべきであろう。

松橋事件の弁護団が長年にわたる真摯な立証作業により、供述調書の真実性を覆した事には敬意を表したい。このような、誠実な業務を行う弁護士らは大いに称賛されるべきである。

不適切な捜査といって頭に思い浮かぶのは、何らかの民事的な係争を「口利き」により刑事事件化し解決をしようとする「三崎」のような、事件屋であろう。暴排センターから警察に下りてきた事件を自分の口利きのように吹聴する「三崎」のような事件屋は国家を愚弄しているともいえるのであるから、捜査関係者はこんな連中の情報などを真に受けてはいけないし、相手にしてもいけないのである。

話はそれたが、捜査機関は誠実に「真実」を追求するべきであり、また弁護士も犯罪者らの「口裏合わせ」などに狂奔せず、「真実」をもって弁護活動を行うべきなのである。