負け方は大事ですよね 負けを負けと認められる器量こそが誰でも必要なはずです

昨日は終戦記念日であったわけだが、終戦というよりは敗戦の日であるわけだ。この時期になると先の大戦の悲劇などをマスコミなどが取り上げるわけだが、特に終戦記念日に限らず、絶えず先の大戦についての問題点は報道するべきであろうと思う。

 当時の国民が戦争の遂行を大きく支持したことは間違いない事であり、そんな世論を作ったのはマスコミであり政治家たちであったわけで、そんな構造は現在も変わっていないからである。

 終戦時の首相であった鈴木貫太郎は「負けっぷりを良くする」ことを述べていたという。負けたことを認め「俎板の鯉」であれと述べたわけであり、負けを負けと認める事こそが重要である事を理解していたのであろう。

 最近は「論破」とか「勝ち組」とかつまらん事を言うやつばかりが多いが、一生すべての事で「勝ち」を拾う人はいないだろう。また戦争とかスポーツのように明らかな「勝ち」などが分からない事も多いことが人生である。それでも、自分が負けたと思うときには潔く負けを負けとして認め事は何より必要であろう。

 最近は「濫訴」的な訴訟を繰り返し提起しながらも、自分に都合の良い判決が下された際にだけ、マスコミに報道をさせたり、自分の請求が棄却されたり、明らかに社会的に問題があるような行為を行ったことを事実認定されたことについては「ダンマリ」でとおす卑劣なお方もいらっしゃるようである。負けた場合には「裁判官ガチャ」に外れただけだから、私は間違っていないとお思いなのかもしれないが、負けを「無かった事」にして「全勝」面しているのは厚顔極まりないというか哀れでしかない。

 弁護士自体が「勝敗にこだわらない」とか述べている者もいるわけであり、倫理観というか何かに欠けている者が増加したのであろう。  負けを負けと認められる器量は誰にでも必要なはずである。知性の欠片も感じさせないご都合主義と厚顔無恥な言動は、まさに「ステマ屋」とか「扇動屋」と呼ぶにふさわしいとは思うし、そんな事に与する弁護士も、ある意味大したものだとは思うが、「品位」に欠けることは間違いない。「恥を知らない」人たちは、どんなに請求の棄却が連続しても負けを認める事は無いだろうから、何を言っても無駄である事は確かだ。厄介な人間のクズみたいな情報発信には、重大な問題でない場合は反論などせず放置しておくことも必要かもしれないなと筆者は考えている。

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