裁判員制度を翼賛する提灯記事への違和感 市民感覚を本当に刑事裁判に持ち込んでいいんですか?

裁判員裁判制度が10周年を、迎えたことでマスコミの多くは「市民感覚」が司法に導入されたとか、「調書重視」から「法廷重視」にかわったなどの論調を行っているが、筆者は大いに違和感を抱いている。

なぜなら、刑事裁判に「市民感覚」を反映されれば、犯罪被害者の報復感情を重視するべきであり、裁判員裁判に付されるような重大事件においては、被害者が厳罰を望むことは当然なのである。殺人事件などの被害者の親族からしたら、加害者の「死刑」を望むことは当然であり、市民感覚の導入という事であれば基本的には「厳罰化」という事になるはずなのである。

しかしながら、一審で重い量刑が課せられたとしても控訴審では、量刑が低くなることが多いことも事実である。一審では「市民感覚」を導入し、控訴審では導入しないというのは極めて不合理であろう。また「調書重視」が変わったとの論調もあるが、当たり前であるが今現在でも供述調書は最大の証拠である事には変わりない。法廷での攻防も完全黙秘事件ではない限り調書の内容(真実性)を巡ってになるのであるから、調書重視の姿勢が変わったとは筆者には到底思えないのである。

そんな実情であり、裁判員に招集された人の6割もの人が辞退をする裁判員制度が広く国民に受け入れられたという論調は大きな間違いであると筆者は考えるものだが、大マスコミなどはそうは考えないらしい。

刑事裁判に市民感覚を持ち込みたいのであれば、腐りきった「カネの亡者」らに、健全な市民感覚から厳罰を与えられるようにするべきであろう。現在も一向に減少する気配のない特殊詐欺を撲滅するには、そのような犯罪に厳罰を加えられるよう法改正し、厳罰を与えたうえに、犯罪収益を元に開業した事業などの全ての収益まで没収できるようにすべきなのである。

裁判員制度でなくとも健全な市民感覚を司法に反映させることは可能であり、立派な人ばかりが集まるシンポジウムとか討論会では無く、普段仕事に追われている人から意見をくみ上げる対策を取れば、本当の「市民感覚」の意見が分かると思われる。

多くの裁判官らには一般的な「市民感覚」は余りないと筆者は考えているが、それは「裁判所村」の常識に縛られている者が多いからである。生活に何の不安も無い裁判官らに犯罪者の気持ちを理解することはなかなか難しいであろうし、様々な犯罪の態様とか、犯罪の動機などについては法廷で分かる事もあるだろうが、本当の底辺の生活を送る者の心情など理解できないのも真実であろう。そんなことから、多くの裁判官らが身分を明かさずに簡易宿泊所に泊まったりコンビニでバイトしたりして「市民感覚」を養い判決に生かしたほうが、裁判員制度よりもよほど有益であろうと思うが、どんなもんですかね。

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