読売新聞の18日付の社説は「裁判員制度10年 辞退率の増加が気がかりだ」というもので、裁判員制度の導入時よりも辞退率が増加している事を指摘し、幅広い国民の視点を反映させるという裁判員制度の根幹が揺らぐのではないかと指摘する内容である。
【参考リンク】
中小企業で働く人や非正規労働者や自営業の人は裁判員裁判になど参加したくはないだろう。裁判員裁判に出席するよりも、仕事をすることのほうが大事であるからだ。「裁判員裁判に出席するので明日は休みです」と取引先や同僚に話をして、理解を得られるのは大企業だけであろう。
また、すでに仕事をしていない高齢者やニートなどは暇だから裁判員裁判に出席することは何らの問題も無い。そんなことから読売社説が心配する通り、幅広い国民の視点を反映させることなどが困難になる事は明らかだ。
しかしながら、そもそも裁判というものは法に照らして法に則り行われるものであり、「幅広い国民の視点」など必要としていないのである。裁判に世論を反映させれば、韓国の司法界のようになるだろう。
裁判員制度推進者らは我が国にも大正陪審があり、我が国に陪審制度がそぐわないという事など無いと述べるが、大正陪審の陪審員はある程度の納税を行っている30歳以上の男子というのが前提条件であり、そうなると陪審員は当時のエリートや名士であり、しかも法廷は「天皇の法廷」であったわけだから、現在の裁判員制度とは異なるし、「天皇の法廷」に出席する陪審員の意識も現代とは全く異なるものだったはずである。
そもそも我が国には陪審制度はそぐわない事は明らかである。幼少時から「法」の存在を意識するアメリカなどとは異なり、「人治」が基本の我が国には合わないし、本気で裁判員制度を導入するのであれば、労働環境を大幅に改善することが必要である事と、働くもの誰もが適正に休暇を取れるようにするべきであろう。
裁判員制度よりも、必要なのは民事裁判や民事執行についての改革であろう。時間ばかりかかり勝訴判決を得ても執行が困難な我が国の司法制度では民事裁判を利用することに躊躇してとうぜんであろう。だから訴訟の新受件数が漸減しているのである。執行制度がもっと実効性を持てば、弁護士の懐具合も今よりは良くなるはずだ。そんな意味からも、真の意味の司法制度改革が必要なのであり、すでに崩壊している法科大学院制度も見直しすべきであり、弁護士自治の見直しも行うべきであると筆者は考えている。