令和の御代になろうと、人間の本質が変わる事はありません 「奉祝」よりも「天皇制」というものを深く理解することが必要なはずです

5月1日に改元がなされてから、世の中は奉祝ムードで、マスコミも今上陛下の過去のこぼれ話などを取り上げたりして、今上陛下を持ち上げることばかりを行っている。

しかしよく考えて欲しい、天皇制というのは皇族の人権を制限することで成り立っている制度であり、今上陛下を始めとした皇族方には様々な束縛が存在し、また日本国民の権利である、選挙権・被選挙権も有しないのである。「象徴」という立場から、ご自身の意見を述べる事にも慎重になられることも事実であり、同じ人間でありながら、多くの自由を制約されている中で、伝統を守るための儀式などをとり行っているのである。

今、馬鹿みたいに「奉祝」しているような連中は「天皇制」や「天皇の歴史」に思いを馳せたことがあるのであろうか?また、現在の日本国憲法下での「象徴」としての天皇制による、皇族らが基本的人権が付与されていないことについて何か考えた事があるのか聞いてみたいものである。

また、天皇制に反対すべき勢力もだらしがない奴らばかりである。即位の例が行われた5月1日にはメーデーである。天皇制反対の労組や極左暴力集団らは、何らの不穏な行動をしなかったようだが、自分たちに信念があるのであれば、今上陛下や皇族らに対して「汝の部署を放棄せよ!汝の価値に目醒むべし!」と赤旗を振りかざして二重橋に突撃すべきだったはずであると筆者は考えるが、そんな事を行った連中はいなかった模様だ。

天皇制が曲がりながらも古代から現代まで連綿と維持されてきたのは、キリスト教社会における「教皇」やイスラム世界における「カリフ」などと同様の宗教的な「権威」により、我が国の時の権力者らの正当性を担保するためであると思われる。また一時期には仏門に入る皇族らが多数存在したことや、神仏習合の中で天皇家と関係の深い八幡神の出家の伝承や、僧形八幡神像などが多数残されている事などからも、国家として天皇(神道)の宗教性よりも、仏教が重視されていた時代もあったことも理解できる。そういうことからも天皇の「権威」「宗教」というのはいかなるものかを再度全ての国民が考える必要があると思われる。

改元がなされようが何が起きようが人間の本質が変わるわけもなく、人間の生活など変わる事がない事ぐらい誰でも理解できることである。そのうえで、天皇制というものが如何なるものであるのか、またなぜ現在も必要とされるのかを国民一人一人が考え、「改元」の意味を考えるべきなのである。

日弁連は、大逆事件の刑死者らのための、市ヶ谷刑務所刑場跡慰霊塔を建立したりしているが、皇族らの人権についても考察を行うべき事も行うべきだろう。

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