芸術とは社会常識を逸脱するものです 会田誠の講義がセクハラならバルテュスやベルメールは犯罪でしょう

弁護士ドットコムニュースは2月27日付で「「会田誠さんらの講義で苦痛受けた」女性受講生が「セクハラ」で京都造形大を提訴」として以下の記事を配信した。

 

京都造形芸術大の東京キャンパスで公開講座を受けたところ、ゲスト講師から環境型セクハラにあって、精神的苦痛を受けたとして、受講していた女性が、大学を運営する学校法人「瓜生山学園」を相手取り、慰謝料など計約333万円の支払いをもとめる訴訟を東京地裁に起こした。提訴は2月22日付。

原告の大原直美さん(39)と代理人が2月27日、東京・霞が関の司法記者クラブで会見を開いた。大原さんは「講義内容が本当にひどいものだった」「セクハラを訴えたあとも、大学側の対応が、教育者としてあるまじき姿だった」「生徒を守ってくれないのは本当に残念だ」と心境を語った。

  • 会田誠さんの講義でショックを受けた。

代理人などによると、大原さんは2018年4月から6月にかけて、京都造形大・東京藝術学舎で開かれた社会人向け公開講座(全5回)を受講した。ヌードを通して、芸術作品の見方を身につけるという内容だった。大原さんは、第3回(2018年5月15日)のゲスト講師だった芸術家の会田誠さんの講義でショックを受けた。

講義は、涙を流した少女がレイプされた絵や、全裸の女性が排泄している絵、四肢を切断された女性が犬の格好をしている絵などをスクリーンに映し出すという内容で、会田さんはさらに「デッサンに来たモデルをズリネタにした」と笑いをとるなど、下ネタを話しつづけていたという。

大原さんは、会田さんのキャラクターや作風を知らなかったという。すぐに、大学のハラスメント窓口に苦情を申し立てたが、第5回(同年6月12日)のゲスト講師で、写真家の鷹野隆大さんの講義でも、勃起した男性の写真の投影などがあった。「講義を受けに来ただけなのに、どうしてこんな目に合うの?」

大原さんは、動悸や吐き気、不眠の症状がつづき、急性ストレス障害の診断を受けた。

  • 「作家の作品の是非ではなく、環境を作り出したことが問題だ」

大学側は同年7月、環境型セクハラについて、対策が不十分だったと認める内容の調査報告書をまとめたという。ところが、そのあとの話し合いで、示談にあたって、お互い関わり合いを持つことをやめる、という項目の要望があり、交渉が決裂。大原さんは同大通信教育部を卒業して、他の大学やカルチャースクールで美術モデルの仕事をしている。

 

代理人の宮腰直子弁護士は「大学は、セクハラ禁止のガイドラインをもうけており、公開講座を運営するにあたっても、セクハラ対策をすべきだった。作家の作品の是非や、セクハラ言動そのものでなく、そうした環境を作り出したことに問題があった」と述べた。講座の運営方法や告知の仕方、その後の対応について責任を追及していくとしている。

大学側は、弁護士ドットコムニュースに対して「訴状が届いていないので、コメントできない」とした。

 

引用以上

 

芸術が社会や常識に迎合する必要は全くないと筆者は考える。京都造形芸術大学を訴えた原告と弁護士は「芸術」は社会的な常識の枠内に存在するべきとかんがえているのであろうか?そう考えているのであれば、我が国の春画や、陰陽石などの民俗文化財もわいせつであろうし、バルテュスの「夢見るテレーズ」やベルメールの人形など児童ポルノにしか見えない筈だ。

澁澤龍彦は芸術とポルノグラフィーの境界線を「裸婦の中の裸婦」(巌谷國士と共著)の中で

どんな芸術的な裸体画にだって、ポルノグラフィーと変わらぬ催淫性の効果はあるんだよ。ただ芸術作品とポルノグラフィーとの違いは、前者が催淫効果だけにとどまってはいないということさ。

と述べており、筆者もこの見解に全面的に賛同する。そして生とは即ち性であり、性を否定して生は無いわけである。芸術を社会に迎合させればナチスの「退廃芸術展」や我が国でも先の大戦中に中原淳一が迫害されたような事と同様のことになるだけであろう。

芸術の公開講座なのであるから、不快ならトットと帰ればいいような気もするのであるが、何らかの事情もあるのかもしれない。しかし、芸術を評価するのは個人の感性でしかなく筆者のように会田誠の作品にセンス・オブ・ワンダーを感じる人間もいれば、この訴訟の原告のように不快感を感じる人間もいるのが芸術というものであり、少なくとも訴訟代理人は芸術の価値が社会常識と相反することを理解するべきなのである。潔癖主義からしたらナボコフの「ロリータ」などもトンデモないお話なのかもしれないし、丸尾末広の漫画なども言語道断なんだろうと思う。しかしながら、同性愛者を差別するなという昨今の論調からすれば稲垣足穂の「少年愛の美学」は非難される対象ではないという事になるのであろうか?

筆者の個人的な見解からすれば、「ヌードを通して、芸術作品の見方を身につける」という講義に参加するような人物であれば、ジョルジョ・バタイユの「エロティシズム」や同題名のロベール・デスノスの著作ぐらい読んでおくべきであり、ヘルムート・ニュートンの写真集も見ておくべきであろう。決して権威主義というわけではなく、どんな世界にも「基礎」というものがあり、その「基礎」を理解したうえで初めて実相が見えるというのはどんな世界でも同様である。会田誠の芸術論がセクハラであり、それを防止なしない大学に公開講座に対する何らかの善管注意義務があるというのは、芸術を理解しないものの戯言に過ぎないと筆者は考える。本気でこのような訴訟を起こすのであれば、チャタレイ裁判や悪徳の栄えのサド訴訟を研究したうえで起こすべきであろう。芸術とわいせつは、しかめっつらしい常識人にはいつでも大きな問題なのであろうが、「私たちは糞と尿のあいだから生まれるのだ」とうアウグスティヌスの言葉を理解するのべきなのだ。

会田誠氏と京都造形芸術大学には、三島由紀夫が澁澤龍彦のサド裁判の際に手紙で澁澤に送ったという以下の文言をささげたい。

「今度の事件の結果、もし貴下が前科者におなりになれば、小生は前科者の友人を持つわけで、これ以上の光栄はありません」

何も恐れることは無く京都造形芸術大学は芸術の反社会性と、芸術に関する講義がアカデミックであればあるほど、人間の本質である性に収斂されることをしっかりと主張し、受講者に退席が許されないわけでもない中での「環境セクハラ」など「笑止」であるとしっかりと主張して欲しい。

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